こっそり妄想徒然紀行

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碇シンジは何から逃げたかったのか

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名作と呼ばれる漫画やアニメは、その時代の世相を反映しているといいます。小説と比べ歴史が浅いカルチャーな分、流行り廃りが激しく、それ故その時代の空気感が如実に出やすいわけであります。

 
かつて全共闘の時代、共産党赤軍派のよど号ハイジャック事件の犯行グループは「我々は明日のジョーである」と大真面目に宣言したそうです。今考えると完全に痛い人たちで、2ちゃんで「ちょwwwおまwww」などとスレ立ちそうな勢いですが。
 
さて、僕が多感な高校時代を過ごした1990年代の代表的なサブカルチャーといえば、新世紀エヴァンゲリオンです。マッチョでカックイー、勇気友情勝利の少年ジャンプ世界観の主人公ではなく、繊細で自己否定的な主人公碇シンジ君。
「逃げちゃダメだ」は彼の代表的な名台詞でもあります。
さて、時代は何故、シンジ君に逃げちゃダメだと言わせたのでしょう?そして、シンジ君は何から逃げたかったのでしょうか?
 

1990年代を簡単に振り返る

エヴァが地上波で放映されたのは1995年。その時代がどういう時代だったのかをサクッと考えてみます。ちなみに僕は高校2年生でした。
1990年に入った直後、バブルが弾け、「失われた10年」と形容される不況に突入します。ちなみにこの不況は、日本経済史上最長だそうです。
 
景気の急速な悪化の中、企業は人件費を抑え、就職氷河期が到来。バブルの浮かれた空気をたっぷり吸い込んだ青春時代を過ごしてきた当時の若者たちは突然目の前が真っ暗になったわけです。
 
さて、エヴァが始まった1995年は結構大変な年でした。新年早々、阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が同時期に起こり、国内は大混乱。日本の安全神話は崩壊した、とかいろんなところで言われていた記憶があります。
 
こうしてみると、結構大変な時代だったんですね。僕は人生で初めての本格的な恋をしたのが高校二年生の時なので、僕にとっても1995年はとても重要な年だったのです。まあ、そんなことはどうでもいいですね。
 
兎にも角にも、そんな時代背景の中、1995年10月に新世紀エヴァンゲリオンはスタートするわけです。
 

碇シンジ君は、代弁者だった

高校時代、同級生男子ほぼ全てと言っても過言ではないほど、週刊少年ジャンプをみんなが読んでいました。買ってたり、借りてたり、電車の網棚に置いてあるのを探して取ってきたり、手段は様々ですが、とにかく読んでいました。で、その頃はいわゆるジャンプ黄金世代。ドラゴンボールや幽遊白書、スラムダンクなどが連載していたわけです。
このまとめ見ると、すごいですね、この時代。

matome.naver.jp

ジャンプの世界観「勇気友情勝利」。混迷を極めていく時代背景の中で、ジャンプは少年たちに「それでも仲間と頑張れ!最後は勝つから!」というメッセージを発信し続けていたわけです。インターネットによる情報の洪水の中を生きている現代の若者と違い、当時はエンタメにしろ何にしろ選択肢は目の前にあるものしかありませんでした。なので、ほぼすべての少年たちがジャンプ的世界観の直下にいたわけです。

 

そんな世界観に慣れ親しんだ世代からすると、エヴァの碇シンジ君は衝撃でした。暗いし弱いし逃げる。途中なんかいい感じになって、徐々に心を開くシンジ君。おお、これは弱かった少年の成長物語なのかと思いきや、途中から反転、人間関係はズタボロになり、大人たちに利用されるだけ利用され、アニメ自体もボロボロになって終わってしまうわけです。

 
で、これは単にそれまでのジャンプ的主人公とのギャップが衝撃で物珍しかったからエヴァがウケたのかというとそうではないと思います。僕たちは、心のどこかで感じていたのです。
 
 「世の中、そんなにうまくいくのかな?」と。
努力しても、何かに期待しても、どうせ良くならないんじゃないかな?」と。
 
ジャンプ的世界観は確かにエキサイティングだしかっこいい。でもそれらはすべて漫画の世界の話で、うまくいかない現実の発散場所として漫画は機能していた、と。
 
そしたら、現実逃避場所だったはずのアニメから、まるで僕たちのような主人公が出てきた、と。そうだった、現実はうまくいかないし、僕は結局弱いんだ、と。
 
 心のどこかで、僕たちはジャンプ的世界観が嘘だって思ってたんですね。少し前まではとにかく歯を食いしばって頑張れば死ぬまで安定ルートが敷かれていました。ただ
、もうそういう時代ではない、ということを知っているわけです。
 
エヴァ用語でいくと、ジャンプ的世界観はただの逃避場所であって、僕たちのリアルとはシンクロしていなかった。そこにエヴァが登場して、僕たちの内面とシンクロしていったわけです。
逃げちゃダメだ、は僕たちの心の声だったわけです。
 

碇シンジは何から逃げたかったのか

ではシンジ君は、つまり僕たちは何から逃げたかったのでしょうか?
物語の文脈上では、突如現れた使徒からであり、その使徒と戦えと命じる父、碇ゲンドウから、ということになると思います。
 
でも、よく考えたら理不尽ですよね。「え?何で僕がこれに乗って戦わなくちゃならんの??」って話だし、もし乗って戦わなかったとしても、それって逃げたことになるんかい?と。普通の中学生ですけど!と。
 
ただ、その理不尽こそがシンジ君が逃げたかったもの。そして、当時の若者が逃げたかった相手なわけです。
 
人類を襲う使徒は、視聴者に何の説明もないまま突然現れます。周りの大人たち(特務機関ネルフ)はみんな知ってるんだけど、視聴者の代弁者であるシンジ君は何も知らない。それなのにいきなり「あれと戦え」と。
 
それはきっと、当時の若者と同じだったんです。不景気という、前の世代の人達が負債の爆発によって、何だかよく分からん巨大な不条理が目の前に立ちはだかったわけです。
 
そしてそれと戦え、という親。いや、あんたら戦えよ、と。あんたらの残した負債でしょう、と。使徒や碇ゲンドウは、理不尽の象徴であり、僕らが逃げ出したい存在だったのです。
 

注目なのは、逃げちゃ駄目だ、だったこと

しかし、そんな不条理を押し付けられても、シンジ君は自分に言います。逃げちゃ、駄目だ、と。
 
そんな不条理、知ったこっちゃねぇ、俺らはお前らの駒じゃねぇ!ではなく、親の言う事に従って、逃げちゃ駄目、なのです。
 
シンジ君は僕らの代弁者だった筈なのに、何故なんでしょうか?僕達は不条理なのに逃げたくなかったんでしょうか?脅迫観念的にそう思い込まされてるだけだったのでしょうか?
 
これは、もう、作り手の意図的な仕掛けだったと思います。逃げちゃ駄目だ、では、結局最終的なメッセージングはジャンプ的世界観と同じ。理不尽や不条理から逃げるな!という。でも、ジャンプ的でいいのか?よくないですね。
 
そこをいきなり否定するのではなく、一回不条理と戦う姿を見せながら、最終的には落とす。結局、僕達若い世代は消費され、ズタボロにされて終わるんだ、と。
 
だから、もう理不尽と戦うんじゃなくて、もう駄目だから、現在のシステムをみんな消して、みんな一つになろう、というのが人類補完計画。
 
でも、それすらもシンジ君は拒否するわけですが。地上波アニメ版と劇場版ではその終幕に差があるため、どちらを正とするのかにもよりますが、無慈悲で不条理な強迫観念は、20年経った今でも変わることはありません。
 
ただ、インターネットの登場によって、昔に比べていろんな生き方ができるようになった気はします。
そもそも期待しちゃダメだ、という考え方がベースにあり、「それなら俺らがやってやるさ」と吠えるのが意識高い系、「どうでもいいから別によくね?」となるのがそれ以外の若者。
 
若者像がすっかり変わってしまったのです。だから、新劇場版の碇シンジ君は当時とはまた違う碇シンジにならざるをえない。まあ、新劇場版はまだ終わってないのでこれからどうなるのかわかりませんが・・・。

 

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